目を逸らした先に

22時、講義が終わり静まり返った大学構内には様々な人間がいる。

 

中間発表を前にして研究成果をまとめる研究室の方々、製図の課題と向き合う建築学生、正門にて見張りを行う守衛の方、

 

そして、我々工大祭実行委員会である。

 

 

午後の少人数チームで行う演習が終わり、他2人が帰る中でただ1人大学に残る姿が1つ、それは実行委員会の過ごす部屋に赴き、様々な雑務をしていた。しかし殆どは自分の仕事では無く、他の人の手伝いであった。

 

副委員長として、議長として毎週の全体会を取り仕切ることが主な業務であった彼にとって、残された仕事というのはそう多くなかった。それでもなお部屋に赴いて手伝うのは、昨年の景色を覚えているからであった。

 

昨年の同じ頃、彼はその部屋で1人ずっと資料を拵えていた。外から人を招く立場であった彼は、その時点で必要最低限の仕事を既に終えていた。が、外から人を招く以上は最大限のおもてなしをしたいと心に宿った末、当日の控え室の位置から行き方など事細かに資料を作ることにしたのだ。

 

故に22時を回っても大学に残っていた。そしてただ1人で黙々とパソコンに向き合っていたのである。

 

1人での作業が辛くなかったのだろうか。彼は恐らく麻痺していたのだろう。1週間後に控えた本番を前に興奮もしていたのだろう。更には、自己肯定の再現性を求め、必死にもがいていたようにも見える。

 

思い返せば彼は仲間に囲まれていながら孤独だった。人を頼ることが苦手な彼は全てを抱え込んでしまう。そうして心が壊れるまで全てを1人で背負っていた。同じチームであった仲間が続々と仕事を終わらせ、各々がただ当日を待つ間も孤独に戦っていたのである。

 

 

22時、講義が終わり静まり返った大学構内には様々な人間がいる。

 

中間発表を前にして研究成果をまとめる研究室の方々、製図の課題と向き合う建築学生、正門にて見張りを行う守衛の方、

 

そして、彼もまた昨年のように、作業のためそこに残っていた。

但し、目を逸らした先にあるのは孤独ではなく、他の人間の姿である。

 

傍から見れば彼らはバカ騒ぎをする集団に見えるかもしれない。しかし、彼らにはただ1つ共通する目標があり、それを目指していた。

たった2日の夢舞台、それを特等席で見るために1年もの時間を費やした。彼らの足跡は数多の線に成りうる。

形の無いCanvasへ、彼らは今日も線を引き続ける。

 

 

24時過ぎ、彼は終電にて最寄り駅を降りた。今日のことをブログにしたためようとしたところ、駅のアナウンスにより追い出されることとなった。

彼は家に帰り、自室にて続きを書く。

そして書き終えた頃、明日も早くから予定があるため直ぐに眠るだろう。

情報工の未来

先日、GPT4がプログラミングのソースコードを書き上げるようになったという記事を見かけた。これによりTwitterでは「情報工も終わりか…」という旨の文を見かけるようになってしまった。

 

確かに情報工学科の"プログラミングが書ける"というアドバンテージは失われたと考えても間違いでは無いのかもしれない。(実際、GPTの出力するソースコードデバッグして修正するなどのスキルはまだ必要かもしれないので0では無いと思うが)

だからと言って弊学の情報工学科の未来が暗くなった訳では無いということを僕は主張しておきたいのである。

 

僕は名古屋工業大学情報工学科の学部新3年生であり、この2年間では基本的な情報分野の専門知識を学んできた。その経験から以下で理由を述べていこうと思うが、まだまだ未熟な故論理にツッコミどころがあるかもしれないが大目に見て欲しいところである。

 

大前提として、僕が2年間学んできた内容は全てがプログラミング関連という訳では無い。

アルゴリズム論や信号処理など、プログラムを書く上で考えるべき内容や、OSや計算機構造などといったプログラム以前にPCを動かす上での話も学習してきた。

故に、プログラミングが我々の固有武器では無くなったからと言って情報工は全てを失った訳では無いと言いたいのである。

 

また、この先僕は情報分野で研究をする事になると思われる。これもまた1つ、情報工の未来が保証されている点だと考えている。

具体的に研究で何をするのかは詳しく知らないが、少なくともソースコードが誰でも書けるようになったところで情報工学科の研究を誰でも出来るわけではないと思うのだ。

 

以上が僕の考える「情報工の未来が失われていない」という理由である。

名工大にもいよいよ新入生が入ってくる頃だろう。情報工学科の新入生には、仕事が無くなる訳では無いので安心してこれからの大学生活を送って欲しいと伝えたいところである。もしこの記事を見て不安が晴れたのであれば嬉しい限りである。

工大祭2年目

言葉では表せないような達成感を得た。

 

2022年11月19日と11月20日、第60回工大祭が開催された。昨年は1年生として参加したブース展の運営を、今年は主任として作り上げる側となった。

 

今思えば、僕は色々な事柄と戦いながら準備を進めていったのだなと感じる。60回工大祭実行委員会の発足の頃から、実は徐々に精神を蝕まれていた。2月頃に壊れた様は過去のブログからも明らかになるほどである。

その後、6月末にもまた精神的に壊れてしまった。2度の地獄を抜け、「本当にやっていけるのだろうか」と不安になった。

本祭1週間前、また鬱の兆候が現れた。何を考えても自分が嫌いになってしまい、心の奥底に常に希死念慮が存在するほど、今思えば重症であったかもしれない。

しかし、2月や6月のように完全に壊れなかったのは、同じく本祭に向けて頑張っている仲間たちの姿であった。

病みかけている頃、同じように自分に出来ることを1つずつ、夜遅くまで大学に残って作業していた。

 

そこで得た感情は、何故か「楽しさ」だった。

 

恐らくかなりの量のタスクを抱えていたと思う。しかし、仲間たちと少々ふざけながら作業をするうちに、成功させたいという思いが強くなっていった。そして鬱感情を克服し、本祭へと進むことが出来たのである。

 

このように最後まで仕事ができたのも、60回工大祭実行委員会のメンバーのおかげだと思う。本当にありがとう。君たちのおかげでぼくは生きられていると言っても過言では無い。

 

さて、今年の出来事を振り返っていこう。

 

まずは新歓企画を運営した。3年振りの対面新歓ということもあり、3年生を含め誰1人経験したことの無い新歓企画を作り上げるのは難しかった。それでも僕は、「新入生の交流の場として最高のおもてなしをしたい」と思っていたため、参加者管理や買い出し、司会台本の作成などを仮免試験と並行して進めていった。

結果としては反省点が多く残る新歓企画となったが、第60回工大祭実行委員会として初めての企画ということもあり、達成感は大きかった。

 

それからは自分の持っている当日企画、ブース展の準備を進めていった。

まずはひたすらに企業さん相手に連絡を取り続けた。もちろんだが、順風満帆には行かなかった。数々の企業に断られるなどの経験をし、かなりメンタルに来るなどしていた。

それでも2つの企業と2つの学生団体を呼ぶことができたので、10月以降もこの4団体に向けて連絡を取るなどをしていた。特に1週間前、出展者様への説明資料を作成したり、直下の後輩に向けたマニュアルを作成、さらにはケータリングを用意するなど、まさにおもてなしや思いやりの心で動いていた。

迎えた当日、企業対応や学生団体対応をして真っ先に温かさを感じたのである。普段から感謝の言葉は聴きなれているはずだった。しかし、この日に受け取った感謝の言葉は別格というほどに温かさを感じたのだ。思いやりの心は大事だと改めて考えさせられる体験だと思い返す。

 

その他、数々の学祭のボランティアに参加したり、前夜祭の動画編集を10日で完成させたり、模擬店PRの司会を務めるなどのタスクを抱えて駆け抜けた第60回工大祭。委員長挨拶の終わる頃には言葉に表せられないような達成感を全身で感じていた。

そして、副委員長で尊敬する先輩でもある方に耳元で「お前はよく頑張ったよ」の言葉もまた、温かかった。2週間経った今でも思い出す度に瞳が潤んでしまう。そのようにして第60回工大祭は様々な経験をさせてくれたのである。

 

改めて、実行委員の皆、1年間ありがとう。

 

 

ところで、僕は前夜祭の動画で今年のテーマソングであるRINGのリードギターを弾いた。あのギターリフは僕自身で考えたのだが、1つ僕なりにメッセージを入れたつもりである。

実はサビのギターリフにて、最後の1フレーズがイントロのリフを弾いているのである。

今年のテーマにあるRING、つまり円だが、この図形は始点も終点も分からないような構造になっている。すなわち、第60回工大祭は終わっても、工大祭自体が終焉を迎えた訳では無い。次の第61回工大祭も既に準備が進んでいるように、工大祭は進化をしながら回数を重ねていく。

先ほど、私は第61回工大祭実行委員会としてまた活動していくことが決定した。今年来られた方も、来れなかった方も、そして今年で引退する仲間たちも、更には共に第61回工大祭を創っていく仲間たちも、

 

どうか、来年の工大祭も楽しみにしていて欲しい。

再現性

早いもので、工大祭当日まで1週間となった。最近は朝早くから大学に行き、授業を受け、課題と並行して工大祭の準備や調整などの作業を進め、夜遅くに大学を出る生活を送っている。

ここまで僕が頑張ってこれたのは、工大祭実行委員会の仲間たちのおかげだということは間違いないだろう。同じく夜遅くまで作業する同期や先輩、手伝ってくれる後輩がいるからこそだと思う。ありがとう。

 

同じく9時から遅くまで作業していた昨日の昼過ぎ、士気を高めるという目的も含めて音楽を流した。我々の工大祭には今年、Half time Oldを含む3つのバンドが演奏してくださることとなった。そこで6月にShanaでコピーしたプレイリストを選択し、音楽を再生した。

久しぶりに聴き、懐かしさを感じた。しかしそれ以上に脳裏に浮かんだのは5~6月の記憶だった。

 

6月ライブまでの道のりは、今思えば過酷な道のりであった。週4~5でバイトに入り、日付超えた頃に家に帰ってから耳コピを進める毎日。加えて普段から課される課題(特にプログラミングは重かった)、免許取得に向けての勉強、工大祭での仕事と並行してギターを練習していたため、驚くほどに切り詰められた日々だったと感じる。対して初めての2バンド組みをし、7曲練習することになっていた。

それでも僕は食らいついた。頑張った。そしてやり遂げた。その瞬間は後悔とか反省とかが残り、自分が情けなく思えていたが、今となってはその過程を自信にできると思う。

恐らく、人生でここまで多彩で忙しかったことはなかったと思う。それ故に音楽を聴いただけでここまで記憶が鮮明に蘇るのだろう。

 

音楽の力の中に、このような「記憶を呼び起こす」作用も含まれると思う。もしそれが本当ならば、時間が経った頃に今年の工大祭のテーマソングを聞くだけで昨日のような工大祭に奔走する日々を思い出せるのかもしれない。

 

まずは今日の前夜祭。自分が作成した動画が投影される。そして演奏に参加した大祭バンドも公開される。その成功を祈りたい。

 

そして、半年後に思い出しても自信になるような工大祭にすべく、残り1週間を走り抜けたいと思う。

不完全

心を酷く病んでから3ヶ月半が経過した。今は有難いことに安定している。

同じタイトルで書いた文章が以前あったが、当初書きたかったが心の余裕から書けなかった内容を改めて書こうと思う。

 

 

 

最近は部屋の内装を改良することに興じている。絨毯を緑系に敷き替え、ユニークな形の棚を枕元に置き、アロマディフューザーのオイルを替えるなどをした。

今は棚の空いたスペースに植物を置きたいと考えている。しかし枕元に置くため作り物の植物が適しているのだろうか。棚と壁紙が白色で、そこに調和するのはやはり花ではなく草なのだろうか。いろいろなことを考えながら目に入った雑貨屋に足を踏み入れる日々である。その過程が楽しく感じるのだ。

 

1つ疑問が生じた。雑貨屋を巡る目的はインテリアを完成させることである。しかし、完成していない穴を埋める作業こそ楽しいと感じている現状がある。もし自分が納得する観葉植物に出会ってしまった時、満足すると同時にこれまで楽しみにしていたことが終わってしまうのではないかと。

 

もう1つの話をする。12月から自分は心を病んでいた時、父は心を病んでいることを知らずに(又は理解せずに)厳しい言動ばかりしてきた。

父は心を病むことを知らないのだ。もし父が心の病を理解していたら、即ち自分と同じ"不完全"な人間だったなら、父の言動は変わっていたのかもしれない。

 

人間は皆不完全だと思う。そして皆は自分に欠けた不完全な部分を埋めて完全にしようとする。その過程を楽しめる人間もまた存在するのだ。

仮に人間が完全を手に入れてしまった時、それから先は何を目標にして、或いは何を励みにして生きられるだろうか。そのビジョンが私には見えないのだ。

 

故に人間は"不完全"であるからこそ面白いのでは無いだろうか。不完全であるからこそ、歯車のギアが噛み合うようにして人と関わりを持てるのでは無いだろうか。

 

太田川、ラスパの隅にあった雑貨屋を今更見つけ、植物のインテリアを見るべく屈んだ時、私の頭に過ぎった既視感のある思想をここに記しておく。

「初挑戦」の後ろ盾

明日は3月ライブ、初日である。以前のブログで書いた通り、12月は失敗という認識だった。即ち今回はそのリベンジとして考えるのが妥当なのだろう。

 

しかし僕は明日のライブを「リベンジ」と捉えてはいない。「初挑戦」の気持ちである。

 

4月、大学に進学すると同時にShanaClubに参加し、高校時代と同様に軽音活動を続けることになった。しかし高校の名前の影響もあり、僕には重圧となっていた。結果として、毎回のライブに対して思い詰めることが多々あったのだろう。

 

「半田高校だから」「経験者だから」

架空かもしれないが、確かに意識内にはあった視線に翻弄されていた。

 

 

何を勘違いしているのだろうか。

 

僕は上手い訳では無い。高校3年間ただギターに触ってただけのアドバンテージを有しているだけである。過度に期待されようと、自分の実力に見合った成長を見せればそれでいいのかもしれない。

 

僕は高校3年間、部活でギターをやってきた。また、度々ボーカルを務めることもあった。

しかし、ギタボはあまりやったことが無いのである。

 

これを機に、

ギタボが(ほぼ)初挑戦である事実を後ろ盾に、

明日のライブは「挑戦者」、もっと踏み込んで「初心者」として挑もう。

 

これが、12月から悩んだ僕の、1つの結論である。

不完全

俺はダメな人間だとつくづく思う。3ヶ月間ほど、自己肯定感は0のままである。太宰治人間失格の1部を借り、「生まれて、すみません」と頭の中で唱えるのが日課であるほど俺は自分が嫌いだった。

1度、家にある縄跳びのロープを使って無心に首吊り用の縄を結んだこともあった。正気に戻った瞬間も、今も、考えてみれば恐ろしい。人格が別のものに置き変わっていた可能性はあれど、自分が自らの意思で生を断とうとしていたことがとにかく恐ろしい。

心が死んでいた。心のどこかで助かりたいと思った俺はTwitterを介して心境を明かした。ありがたいことに友から心配の連絡が来たが、俺はどうしても甘えきれなかった。感情を殺し、不安にさせないように精一杯だった。(考えてみればそれが1層不安にさせたのかもしれないが)故、ありがたい心配の連絡が鬱陶しく思えてしまった。

そして誰とも喋りたくなくなった。Twitterでの弱音ですら吐かなくなった。自己否定の念は肥大するが、全て心の内に秘める事にした。

しかしその体勢も長くは続かない。とある日、体が起き上がらず、ついにはバイト前に嘔吐。危険信号だ。体がこれ以上耐えきれないことを警告してくれたものであった。それ故、その日のバイト,大学の講義は休むことにした。

本来ならばそこでしばらくの気分転換が必要だったのだろう。しかし、各方向に対して余裕の無かった俺は逃げることが許されなかった。吐いた次の日からまた、同じ日々を過ごしていった。

2度目のガタが来る。期末試験当日。再びの嘔吐。更には歩くことすら厳しい状況に。これも危険信号だということにより、試験を欠席して通院することになった。

 

前置きが長くなったが、ここからが地獄だったのである。

 

父に連れられ車で病院へ。心が閉じた俺は誰とも喋る気は無かった。対して父は自分で説明しろと強く要求する。仕方なく細い声で応答するも届かず。ついには怒鳴られる始末であった。

苦痛だった。車を下り、歩きが覚束無い俺を見てまた怒鳴る。一人で歩けと突き放す。本当に苦痛だった。まるで囚人と看守のような状態。

病院では看護師により直ぐにベッドまで案内される運びになり、1度父と離された。精神的に一瞬の安堵が許されたが、問診票を持ち再び父はやって来る。

何度も言うが誰とも喋る気は無い。声も出せない。そこで俺は自分で書こうと問診票とペンを取った。しかし父は直ぐに取り返し、話せとまた怒る。病院内ゆえ怒鳴られはしなかったが冷たかった。父に見せないように涙を零した記憶が微かに残っている。

受験期にも同じような状況があった。口を開きたくない俺を怒鳴り、筆談すら許さず声を発して説明しろと迫る父。思い返せば地獄の空気。

 

幼少期から良い子を演じてきた。良い子なので我慢をする。良い子なので甘えない。良い子なので何も欲しがらない。

果たして「良い子」だろうか。今思えば歪んでいることは明確だ。しかし幼い俺には分からなかった。このような教育をする家庭で、教えを破れば厳しく怒鳴られる恐怖が背後にあったから、なのかもしれない。

19になった今もその恐怖は続く。「良い子」にしなければ、演じなければ。長男として甘えることはご法度。妹達の自由のため、俺からは何も要求しない。要求しようものならまた怒られる。本心を隠せ。エゴを捨てろ。

 

そうして育った俺はいつしか、自分が幸せになることが許せなくなってしまった。

 

嫌だ。甘えたい。助かりたい。誰かに助けを求めたい。

 

駄目だ。甘えるな。己が滅んでも他人の幸せを守れ。構ってもらうな。

 

 

 

 

 

この葛藤の答は見つからぬままである。

 

 

 

 

今日、また朝起きて嘔吐。しかし休養をとって甘えようものならまた父に怒鳴られる。トラウマを背に今日も学校へ赴いた。

 

どうか、ブログに逃げた自分を許して欲しい。