不完全

心を酷く病んでから3ヶ月半が経過した。今は有難いことに安定している。

同じタイトルで書いた文章が以前あったが、当初書きたかったが心の余裕から書けなかった内容を改めて書こうと思う。

 

 

 

最近は部屋の内装を改良することに興じている。絨毯を緑系に敷き替え、ユニークな形の棚を枕元に置き、アロマディフューザーのオイルを替えるなどをした。

今は棚の空いたスペースに植物を置きたいと考えている。しかし枕元に置くため作り物の植物が適しているのだろうか。棚と壁紙が白色で、そこに調和するのはやはり花ではなく草なのだろうか。いろいろなことを考えながら目に入った雑貨屋に足を踏み入れる日々である。その過程が楽しく感じるのだ。

 

1つ疑問が生じた。雑貨屋を巡る目的はインテリアを完成させることである。しかし、完成していない穴を埋める作業こそ楽しいと感じている現状がある。もし自分が納得する観葉植物に出会ってしまった時、満足すると同時にこれまで楽しみにしていたことが終わってしまうのではないかと。

 

もう1つの話をする。12月から自分は心を病んでいた時、父は心を病んでいることを知らずに(又は理解せずに)厳しい言動ばかりしてきた。

父は心を病むことを知らないのだ。もし父が心の病を理解していたら、即ち自分と同じ"不完全"な人間だったなら、父の言動は変わっていたのかもしれない。

 

人間は皆不完全だと思う。そして皆は自分に欠けた不完全な部分を埋めて完全にしようとする。その過程を楽しめる人間もまた存在するのだ。

仮に人間が完全を手に入れてしまった時、それから先は何を目標にして、或いは何を励みにして生きられるだろうか。そのビジョンが私には見えないのだ。

 

故に人間は"不完全"であるからこそ面白いのでは無いだろうか。不完全であるからこそ、歯車のギアが噛み合うようにして人と関わりを持てるのでは無いだろうか。

 

太田川、ラスパの隅にあった雑貨屋を今更見つけ、植物のインテリアを見るべく屈んだ時、私の頭に過ぎった既視感のある思想をここに記しておく。